西暦769、称徳女帝の御代、女帝の寵愛を受けて力を付けてきた弓削の道鏡は
天皇の位を臨むようになった。そこで、称徳女帝は、神託を受けるために信任の厚い
法均尼を宇佐へ下がらせようとしたが、病身であったので、代わりにその弟の
和気清麻呂を派遣した。しかし、結果はノーであった。
ここで問題なのは、何故宇佐八幡宮であって伊勢神宮ではないのか?伊勢神宮は
天皇家の祖先神である天照御大神を祭る皇大神宮である。崇神天皇の頃、4〜5世紀頃、
宮廷を離れて現在地の伊勢へ移されたといわれている。
奈良の都から近い伊勢神宮へ行かずに、何故九州の宇佐八幡宮まで神託を受けに行ったのか?
それにはそれなりの理由があった筈である。それは何か?宇佐八幡宮には伊勢神宮より
重大な何かがあるからだ。皇室の祖先神、天照御大神は邪馬台国の女王卑弥呼が神格化されたと
言われている。即ち、宇佐八幡宮には卑弥呼がまつられているからに他ならない。
(宇佐八幡宮は古墳の上に立っているが、いつの発掘かは定かではないが巫女さんの話によると
中央から石棺が一つ発掘されたとの事である)
宇佐八幡宮の本殿は卑弥呼の墓である。しかし、宇佐八幡宮の本殿には、卑弥呼とは
書かれていない。比売大神と書かれている。比売大神=ヒメミコ=卑弥呼である。
では何故比売大神なのか?
秦の始皇帝の時、皇帝は徐福に不老不死の秘薬を探すように命じた。紀元前2世紀頃、
徐福は東海に浮かぶ神秘の国、倭国へ不老不死の秘薬を求めて、多数の童男童女を連れて
渡来した。その子孫に一人の道鏡の巫女で仙人的少女がいた。彼女は、「宗像三神」
(東支那海を臨む島々に祀られた海洋の神)が祀られている宇佐八幡宮の神体の山、
御許山を聖地として修行を始めた。巫女には名前はなくて、後の古事記、日本書紀に登場する
「日売命」、「毘売命」、「姫命」、「媛命」即ちヒメミコと言うような敬称で呼ばれていた。
三国志−東夷伝−倭人の条の著者「陳 寿」はヒメミコ又はヒミコの事を話に聞いて漢文で
記述する際、音読みで卑弥呼と記述したものと思われる。しかし、何故、選りによって
「卑文字」を使ったのか。「邪馬台国」も然りである。「邪」はヨコシマと言う意味であり、
倭人の「倭」は醜いと言う意味である。当時、既に2千年以上の歴史があり、文字を持っていた
彼らは魏の属国である倭国を未開国と見ていたのだ。 添付写真を見て戴きたい。
左の写真は御祭神の配置である。中央の2の御殿に祭られている神様が常識としては
一番偉い神様と思う。これが卑弥呼が祭られている御殿である。断言して間違いないと思う。
ところが、いつの時代の事か忘れたが、文献によると左、即ち3の御殿が「八幡様」即ち
応神天皇(誉田別尊)となっており、右、即ち1の御殿が日売大神となっているとの事である。
これは、何を意味するのであろうか?
応神天皇は、北方騎馬民族首領、神話のスサノオ、熊襲の王の子孫と言われているが
架空の天皇である。後に、追加された神功皇后は勿論架空の人物で応神天皇を万世一系の
天皇に仕立てるための工作である。とすれば、巫女(卑弥呼)の墓しか考えられないが、
卑弥呼を神格化してアマテラスを作り上げた関係上、
卑弥呼(ヒメミコ)を表に出すのを控えたのではないだろうか?
戸矢 学著「卑弥呼の墓」を一部参考に致しました。
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