古代史の謎解きに挑戦
☆西宮 矢倉 和雄(その2)☆
人間、年を取って来ると何となく歴史に興味をもってくるものらしい。大体我々理科系の人間は文芸、歴史、哲学、政治なんてものはあまり興味ないし、特に過ぎたものなんて、振り返ってもしゃあないやんか!と思っていた。 ところが、10年程前、朝日新聞の通信教育の案内欄で、早稲田大学、水野祐監修[古代史]と言うのが目についたので申し込んでみた。約半年間の間に送付された5冊のテキストを読み、問題集の解答とレポートを提出する。たまたま、水野先生は、古代史と言う分野ではかなり有名な先生で、すっかり嵌り込んでしまい、九州、佐賀地方、筑後川の流域まで邪馬台国の幻に引かれて、鍬とスコップを手にと言う訳ではないが、その気配を探しに行くことになった。結果は、現地のお年寄りに[邪馬台国があった雰囲気のところ知りませんか?]と聞くとビックリして[ええ!邪馬台国は奈良でしょう!]と言うので、あきらめて帰ってきた。 帰りに、宇佐八幡宮へ立ちより、和気清磨呂になったつもりで神託を賜り、宮司や巫女からいろいろ話を聞き、卑弥呼の墓である確信を持って帰阪した。 さて、本居宣長以来、邪馬台国の位置について、かくも混乱を招いた原因は何か?日本人の悪い癖というか、島国根性と言うか、大体が、陳寿ごときのええ加減な、魏志倭人伝の出鱈目な根拠のない記述にオドロされたのが間違いの元だと思う。あれは、自分で歩いた訳でもなく、噂に聞いた情報を無責任に記しただけのものだと思う。そんなものより、矢張り我々日本人は記紀の中の神話と伝承に隠された意味を解析すべきだと思う。
古代史の謎―1 蘇我の入鹿は聖徳太子の半生か? 飛鳥時代23年間の謎。蘇我の入鹿と聖徳太子は同一人物ではないかと考えている人は多い。勿論、歴史の本にはそんな事は書いていない。ご承知のように、聖徳太子と言う名は死後、徳の高い聖者であった事から、そう呼ばれるようになったものである。聖徳太子の偉業は教科書でも有名だからここでは書かない。私は、戦争中、播州に疎開し、太子の寺、斑鳩寺のある斑鳩小学校に通っていたので、特に太子の若き日の偉業についていろいろ聞かされたのかも知れない。又大阪での仕事上、四天王寺についても関心がない事はない。 聖徳太子は紀元574年に生まれ、622年に没した事になっている。太子の墓は、大阪羽曳野太子町の叡福寺にある。太子は死を予感し,石棺を用意し、死ぬ日まで決めていたとも言われている。それは何故か?太子の偉業は若い時に圧倒的に多く、その後は、推古天皇の摂政をしながら、実は大王(天皇)であったとも言われているが、記紀には出て来ない。中年以後の太子ははっきりしない事も多く、気が狂ったとも言われているが、狂ったように装っていたとも考えられる。桜井の西に膳夫(かしわで)と言う地名があり、ここは太子の第2夫人、即ち膳夫夫人の出身地であるが近所では太子の評判はよくない。一方、蘇我入鹿は生年月日が不明で、645年大化改新で中臣鎌足に殺されている。何歳であったかはどこにも書かれていない。太子が48歳で亡くなって23年後のことである。蘇我一族は、稲目、馬子、蝦夷等については、歴史的記述も多いが、入鹿については、無法者と言うか大変な荒くれで、人々からは恐れられており、大化改新で殺された悲劇の主役であるが、蝦夷の子と言うだけで家族がいたのか?殆ど何も分かっていない。 そこで、太子と入鹿は同一人物で、狂った太子が入鹿を演じたのではないか?太子は、用明天皇の子であるが、蘇我一族は天皇家の外戚であり、蘇我と太子は、神道系の物部を滅ぼした信仏派であり、太子(入鹿)を滅ぼした天智と鎌足は神道系であり、天智と異父同母の弟天武は仏教徒であり、後に壬申の乱で勝利し、兄天智の子、弘文天皇を自殺に追いやった。私は、物部と蘇我との争いが尾を引いたとも考えられると思う。種々の事情を調べていくと、太子と入鹿は同一人物であったかも知れないと言う疑問が沸いてくるのである。 元、飛鳥公民館の館長をしていた蘇我原さんと言う男がいる。入鹿の子孫で何代目か分からないと言う。家は、向原寺(こうげんじ)で、寺の管理もしている。蘇我一族の蘇我と向原寺の原を取って「蘇我原」にしたとのことである。向原寺と言うのは、豊浦(トユラ)寺とも言われるが、かって我が国初代女帝であられた推古天皇が政治(まつりごと)をされた本拠地でもある。太子が摂政をされた(又は太子が大王であられた)小墾田の宮は数キロ北にある。 元飛鳥公民館館長、且つ向原寺の現住職である蘇我原さんに太子と入鹿の件を聞いてみたが、極めて返事は不機嫌であった。「すべては、発掘による!」とのことであった。(2003.7)
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