善光寺の秘仏の謎
☆西宮 矢倉 和雄(その3)☆
善光寺にお参りした方も多いと思いますが、善光寺が何回建てなおしたか、高さは何メートルあるか、参道には電柱が一本も無いと言う事よりも、その原点を検索したいと思います。その原点は明日香にあります。最近になってその建築様式が明日香のものだと言う事も分かってきたそうです。
時は6世紀、欽明天皇の頃、蘇我稲目は百済から仏像を得て、明日香の甘樫丘の西北麓の屋敷(現在は向原寺となっている、かっては推古天皇が政を行っていた所)に金の仏像を飾り布教しようとしたところ、運悪く疫病がはやり、それに気ずいた物部尾興は仏像を盗み出し、難波の堀江に投捨てました。
かって神道であった倭の国に仏教を持ちこんだと言う信仰上の可否と言うより、当時天皇の外戚として互いに力をつけてきた両家の権力抗争であったのでしょう。
それが引きがねとなり、推古天皇の甥の聖徳太子は、物部守屋を滅ぼしました(587年)。今も、守屋の首を洗ったと言う池が大阪府八尾市太子堂(地名)の国道25号線沿いにあります。
さて、それから数百年も経って、本田善光と言う男が、難波の堀江から金の仏像(勿論日本では最初の仏像で、飛鳥寺の建立より古い)を探し出し、信濃の国へ持ち帰り、お祭りしたのが善光寺の起源だと言われています。難波の堀江とは何処か?大阪には市街地の西区に堀江と言う地名があります。また、当時は、今の東大阪、大東市、八尾市辺りは湖で大和川の流域であり、かって、唐や隋の大使も川を上って、飛鳥の宮まで来た訳ですから、そんな広い範囲の堀江において仏像が発見出来る筈がないと思っておりましたところ、「難波の堀江」とは蘇我稲目の屋敷があった現在の向原寺(豊浦寺トユラと読む)の僅か30メートル離れた10坪程の池である事が判りました。これが、本当なら充分探し出す事は可能な訳です。多分そうだったのでしょう。
ところが、前述、向原寺の住職の蘇我入鹿の子孫の蘇我原氏の話によると、内の寺にも、其の金の仏像(一光三尊像)があったが、盗まれたと言って古い高さ約30センチの仏像の写真を見せて呉れました。
となると、百済から来た金の仏像は二体あったのか?何が本当なのか?何故、善光寺に祭られている仏像は、絶対に拝観させないのか?。
それ以上の詮索はするすべも無いので参考までに「難波の堀江」と向原寺の画像のみ添付します。