古代史の謎の3部作の最後、壬申の乱に絡む謎について、有名な和歌を添えて書いて見ました。ついでに持統天皇で有名な「天の香具山」の写真を添付しました。天の香具山は低い丘のような詰まらぬ山です。飛鳥に興味或る方がいましたら、いつでもお越し下さい。案内致します。
西宮の自宅から150M程の所に、標高15M位の「万葉植物園」と言う丘があり、幼児とお歳よりの憩いの場所となっている。
僅かではあるが100種類位の万葉植物が植えてあり、その根元に有名な和歌が石に彫刻されている。
有名なものとして、額田皇女の「茜さす 紫のゆき 点野ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる」と、 天武天皇の「紫の 匂える妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋めやも」が対峙して刻まれている。(お分かりと思うが、大海人は、美しい額田は憎くないので今も恋しているとヘイへイと人前で言っている)
時は7世紀、天武の歌が、憎いほど、うまく出来ているので、これは、余興か(又はヤラセ)とも思いたいが、貴族達が集う歌席において天智が激怒し、槍を投げつけ、大海人(天武の若い時の名前)の傍の床に突き刺さったと言う事に当時の権力争いの謎めいた事情があると思われるので、その辺の事情を考えながら、大化改新と王位略奪と言う激動の時代、かつ又ロマンあふれる万葉の初期の世界を覗いてみたいと思う。天智天皇と大海人は同母、異父の兄弟と言われている。天智は天皇家の血筋であるが、天武(大海人)の父は百済系高向王と言われている。母は二人とも皇極天皇(後の斎明天皇)である。
額田皇女は、地方豪族の娘で、まれな美女で才媛であったと思われる。大海人と額田は若くして一女をもうけたが、後に、大海人は額田を兄の天智に譲っている。天智は、蘇我系で崇仏者の入鹿(ヒョットすると太子?)を倒し、絶大なる権力を持ってはいたが、再三の蒙古の脅威に怯え、高安城を築き、更に都を大津へ移していた。大海人は大化改新では、全く姿を見せないが、物部x蘇我の争いが当然ながら恨みつらみとなっていた事は考えられる。額田は天智の権力によって奪い取られたふしがある。然し、一方では、天智は大海人に怖れを持っており、自分の娘二人を与えている。大海人の天智に対する恨みは文献では計り知れないが、大海人は天智を山科(京都と大津の間)へ狩に連れだし、暗殺したと言う話もある。山科から数KM南の六地蔵の川原で天智が履いていた木靴の片方が発見されたが、遺体は見つからなかったと言う話もある。
事実、天智天皇の御陵は他の天皇の御陵とは程遠い、JR山科駅の2〜3KM西の山麓にある。他に都らしき史跡もない処である。然し、数ある「壬申の乱」に絡んだ著書では、天智は大津の宮で病気になり、実子、後の弘文天皇に王位を譲るために、大海人を打倒すべき作戦をたてる。これに気ずいた大海人は、出家する振りをし頭を丸め吉野に隠れ兵を集める。
この大ピンチに大海人の妻の一人(天智の娘で後に持統天皇になり天武亡き後の藤原宮を仕切った女性)は、献身的に天武を支えたと思われるのも謎である。しかるして、伊賀、桑名、美濃で兵を集め、瀬田川の合戦で天智政権を引き継いだ弘文政権を武力で倒し、大津の山中で弘文天皇を自害に追いやった。この武力による歴史的王位略奪戦に額田皇女の諜報があったようであるが、これ以来額田は歴史の世界から消えている。
其の後、天武は、飛鳥に遷都したが、間もなく持統の時代に中国の手法を取り入れた大藤原宮を築くが、草壁の皇子が若死にしたため孫を継承者とするとともに、記紀に書かれた天孫降臨の神話は、持統天皇の王位継承を神格化して書かれたものと言われている。(天子ではなく天孫になっている理由)
先ほどの添付フアイルの画像の説明が不足だったと思います。平べったく写っている丘のようなものが、彼の有名な天の香具山です。其の手前の村に虫干しをしてるのを見て、持統天皇が「春過ぎて 夏きにけらししろたえの ころもほしたり 天の香具山」と歌った訳です。写真は、かって藤原宮の大極殿があった場所から写したものです。
香具山の後の山は、多武峰と言って、天智天皇と藤原鎌足が入鹿暗殺の作戦を練った山で、その中腹に談山神社(官幣大社)があります。